さんまのチカラ

今までの人生で辛いことがあった時に 少しでも笑いたくて憧れて追いかけてきた

豊かな国が貧しき国に移れど明石家さんまは笑っている


J.BOY 頼りなく豊かなこの国に
J.BOY 何を賭け何を夢見よう
J.BOY...I'm a J.BOY

浜田省吾の『J.BOY』
1986年の歌だ

あれから38年が経ち
「頼りなく豊かな国」は
「頼りなく貧しき国」になりつつある
いやもうなってしまったのかもしれない

円安により海外からの旅行客は日本の物価の安さに驚き
日本から海外へ行けば物価の高さに驚く
不動産も海外投資家に買い漁られ
インバウンドも重要な観光業における収益源だ

半導体なんて日本の世界に誇る主力産業だったのに
今では台湾企業が熊本に工場を造りその経済効果に頼る状態だ
自動車産業だって市場は世界に移っている

ドラマも昔は韓国が日本を真似ていたはずなのに
今では予算も内容も遅れをとってしまった
『VIVANT』のようなオリジナル脚本でスケールの大きいドラマがもっと出てきてほしいが今の日本のテレビ番組の予算では難しいのだろう

物価高により消費税の財源は増えているはずだが
各種税金や保険料・年金は下がることなく
異次元の少子化対策と言ったって
結婚も子供を育てることも先行き不安しかない

自分がもし今10代20代だったら果たしてどう思うのだろうか?

 

僕らが子供の頃は水なんて買うものではなく
水道水を飲んでいたし
農家にある井戸水だって飲んでいた

50円ぐらいで買える瓶のジュースは着色料で濁ったような色をしていたが
あの頃はそれなりに美味しかった
焼肉・回転寿司なんて普及していなかった
寿司なんて葬式の時に食べる太巻きか稲荷の記憶ばかりで
にぎり寿司なんてめったに食べることなんてなかった
まあ僕の家庭がそんなに裕福ではなかったからかもしれないが

田舎町でも雑貨屋・駄菓子屋・文房具屋・酒屋・飲食店・洋服屋・本屋・自転車屋おもちゃ屋があり
その地域ごとで細々でも経済と産業は成り立っていた
ファストフードやファミレスも少なかった
テレビゲームが普及する前は遊びといったら
けん玉・ヨーヨー・スーパーボール・メンコ・縄跳び・ゴム跳び・釣り・輪ゴムの鉄砲
カブトムシやトンボを捕まえたり
川遊び・凧やカイト、水鉄砲などで電気や電池で遊ぶオモチャは少なかった
空き地などで基地と称して隠れ家もどきを作り自分たちだけのエリアみたいにして楽しんだ
笹の葉で船を作りよく川に流して遊んだ

電話なんて家の固定電話か公衆電話しかなかったから
兄妹で取り合ったり
十円玉をたくさん握りしめ公衆電話にかけ込んだものだ
好きな女の子の家に電話をかけたら
相手の父親が出てあせって切ってしまったこともある
コンサートのチケットを電話で予約するのに繋がるまで何度電話をかけたことか

待ち合わせ場所を勘違いしてすれ違いになったこともあるし
交換日記なども書いたな
この便利な時代では遠い夢のようだ


今思えば1980年代はバブル崩壊までは浮かれていたのかもしれない
1970年代はそれなりに貧しかったような雰囲気もある

でも今の若い世代は今のこの空気感や情勢しか知らない
その今を生きていくしかない
もちろん老いた世代も今を生き抜いていくしかない


あの頃から遥か遠くの世界に来てしまったような気もするが
テレビをつければ
明石家さんまが今も喋っている
それも衰えもあまり感じさせず元気一杯で

実際は声質も変わってきているし
若い時に比べれば滑舌が曖昧な時もあるが
あの年齢であのトークの反射神経と
エピソードの記憶力には驚愕する

浜田省吾が『J.BOY』を出した1986年は
オレたちひょうきん族』はまだ続いていて
お笑いBIG3が誕生する前だ
タモリはあの頃から飄々と淡々としていて
ビートたけしの目はランランと輝いていた
明石家さんまは現在ほどの大御所感はまだなく
軽いお調子者のキャラであり
MCとして素人や芸能人相手にトークを裁く達人になっていくのはもう少し後になってからだ


自分が若い時は年配の方の昔話や苦労話や自慢話などは
時には聞くのが面倒に思っていた
それが今では自分が昔はこうだった、ああだったと
昔は大変だった、
昔のが良かったなどと
のたまう側になってしまった

世代のギャップなんてものは形を変えても繰り返していくんだな

豊かな国が貧しき国に移れど
テレビとラジオの中で
明石家さんまは笑っている


1977年に『ヤングおー!おー!』で初めて見た若き明石家さんま
もうすぐ7月1日に69歳になるが

豊かな国だろうと貧しき国だろうと
変わることなく
今も人を笑わせている