松本より先に死にたいねん
「俺、松本より先に死にたいねん」
確か以前やっていたダウンタウンの番組『ダウンタウンなう』の中で浜田雅功が相方の松本人志が亡くなったらどうするとかどういった気持ちになるとかの話題の中での発言だったかと思う
明石家さんまファミリーの村上ショージもさんまの葬式には行きたくないので先に死にたいようなことをどこかで言っていた
さんまが人前で涙を見せることがないという話題の際に
「何で泣かないんですか」という周りのつっこみに対してさんまは
「ショージが死んだ時のために涙を残してんねん」と言ったら
逆に村上ショージがウルウルと涙を浮かべた場面もあった
ダウンタウンは漫才コンビであり元々は同級生の幼馴染みだ
村上ショージは明石家さんまに憧れて芸人になり
仕事が無い時代から当時既に売れっ子だった明石家さんまに可愛がられ
食事・草野球・麻雀など共に遊び
徐々に明石家ファミリーとしてさんまの番組に出演するようになり
コント舞台においてもジミー大西と共に欠かせない存在となっていく
現在もラジオ番組『ヤングタウン』『明石家電視台』では共演し続けている
芸歴はさんまのほうが古いので先輩にあたるが同い年だ
漫才コンビは家族よりも仕事において多くの時間を一緒に過ごす
よく自宅住所も連絡先も知らないというコンビも多い
仕事のパートナーでありプライベートまで無理に仲良くなる必要もないだろうが
どういった関係性でどういった感情なのだろうか
人間関係というのは不思議なもので付き合いが長ければ関係が深くなるとも限らず心を許せるようになるとも限らない
漫才コンビも不仲が原因でコンビ解消に至るケースも多いし
不仲のままでも割り切ってコンビを続けているケースもある
職場の同僚とは家族よりも長い時間を一緒に過ごすことが多い
しかしその同僚が亡くなっても多少のショックはあれど深く悲しむことがない場合だってある
何年に一回しか会わない関係の人が亡くなった場合のほうがショックが大きい時だってある
大切な人、愛する家族の死を想像はしたくない
でもいつかは訪れる
自分が先に死ぬかもしれない
自分が死んだ時にはどれだけの人が悲しんでくれるだろうかと考えたりもする
芸能人のように多くの人か追悼してくれるわけでもない
ある程度年齢を重ねると兄弟の死だって悲しいかな客観的に冷静に受け止めてしまう場合もある
昨今は孤独死の末に行政が血縁関係者を探すのに時間がかかり何カ月も遺体が安置されたままになる場合もあると聞く
誰にも看取られず誰にも気付かれない死もあるということだ
人間誰だって関係のない他人の死より自分の今日の生活と明日の生活のほうが大事だ
周りの誰が死のうと幼き子供がいればまずその世話をしなければならない
誰が死のうが
お腹はすくし
眠くもなる
たとえ家族が死んでもだ
愛する人の死は悲しいことだが何万年も人類が繰り返してきたことだ
死語の世界
生まれ変わり
生死をさまよい三途の川やお花畑を見たとか
死んだばあさんが川向こうにいて「まだこっちに来るな」と言っていたとか
いろんな話があるが
死語の世界はあるのだろうか
僕の父親は亡くなった翌日に
母親の枕元に立ち
「ゴミは出したんか」と言っていたらしい
僕には一切出てこなかったけど(笑)
友情や愛情
感情や想いは目で見えはしない
でも狂おしい想いは残る
だから絵画や小説・詩、音楽などの芸術が生まれた
哀しみは涙を流すことで表現しているのかもしれないし
涙を流すことで悲しみと平静のバランスをとっているのかもしれない
終活にはまだ早い年齢だと思ってはいるが
人間いつ死ぬかわからない
明日には突然死してしまうかもしれないし
交通事故でこの世を去ってしまうかもしれない
芸能人やスポーツ選手の病気や死亡のニュースには過敏になってきた
自分と近い年齢の人や自分より若い人が亡くなったりすると特にだ
親族の臨終の場面に何度か立ち会ったが
何人かは輝きを失いつつある目から涙が流れていた
単なる肉体的生理的現象なのか
悲しくての涙か
寂しくての涙か
辛くての涙か
安堵しての涙か
それとも感謝しての涙か
嬉しくての涙か
それは本人しかわからない
でもみな怖がってはいないように見えた
別に今現在死にたいと思っているわけでもないが
死にも向きあって考えなきゃなと思うようになった年齢なのかもしれない
あの人に会えなくなるのであれば
いっそのこと自分が先に死にたいと思えるほどの
愛情に出会えたのであれば
その人生は幸運であったのかもしれない