笑うことと嘲笑うことは違う
「先日放送された『さんまの東大方程式』(フジテレビ系)のある場面を見た視聴者から、X上でさんまがあたかも「吃音」をイジっているようだと嫌悪感が噴出している。」・・・とネットニュースに書いてあった
Xも見ていないのでどんな内容が書いてあったかも知らないし読む気もしない
しかし人によって捉え方がこんなにも違ってくるものかとビックリする
僕もこの番組は見たがまったくそんな印象ではなかったからだ
別に自分の感じ方がすべて正しいなんて思ってもいないが
僕の感覚では吃音という印象は感じたことはなかったな
O君は喋りたいことや伝えたいことがいろいろありすぎて
それをあせって話そうとするから余計に噛んだり言葉を間違えたりする
その口調や表情がコミカルにどうしても見えてしまう
それを素人いじりの天才である明石家さんまのつっこみやフォローで笑いに増幅変換されているだけだ
そして編集も意図的にそのコミカルさをクローズアップする形になっている
愛のあるいじり方にしか見えないけどな・・
O君の本当の心の内はわかりもしないが
いじられるのが本当に辛く嫌なものであればこれほど毎回出演もしないだろう
もしかして局側から強引なオファーを断り切れず無理から出演しているという可能性も無いわけではないがそんな雰囲気は画面からは伝わってこない
そもそもO君の吃音そのものを笑いたてているわけでもない
表情やお喋りのリズム、佇まいや声質や話題の内容などの総合的な要素が絡み合って笑いになっていて
それが愛されるキャラになっているだけだ
O君は確かに滑舌がいいわけでもないし
わかりやすく流暢に話すわけでもない
O君の気持ちを聞いたわけでもないのに
吃音をいじられて笑われて可哀そうと
勝手に思うことのほうがよほど可哀そうではないか
O君はこの番組の初期から出演していてずっとこのキャラをいじられていて
ある意味この番組の結構な貢献者でもある
そして本人も語っているがこの番組に出演したことによって出会えた人や
いろんな経験ができたことを感謝しているということを歌にしていたはずだ
むしろO君は緊張もしているだろうが結構楽しんでいるようにしか見えない
しかしネットニュースの切り取りの偏向報道も困ったもんだ
どこのだれだかわからないコメントを一部だけピックアップしてあたかも
大勢の意見みたいに仕立て上げる
一部の発言や行動を取り上げて
やれ差別だ
人権侵害だ
モラハラ・パワハラだ
コンプラ違反だ・・など
なんとも窮屈な時代になってしまったものだ
差別なんて今も昔も無くなったことなどない
乱暴な例えかもしれないが
両足の無い人に
「悔しかったら走ってみろ!」と言って
言われた両足の無い人は
「うるせえ!走れるならとっくに走っとるわ!偉そうに言うな!このチビ・デブ・ハゲ!」
こういった口喧嘩が出来るとすれば
ここに差別はない
対等な関係がある
障がい者の反対語は健常者ではない
健常者というのはたまたま幸運にも肉体的にあまり不自由がない状態で生まれ育ったに過ぎないのだ
笑いには根本的に差別や見下す感情は内包されている
自分が恐れおののく存在に対して笑うという感情は湧いてはこない
自分を虐げている権力者が落ちていく様を見て笑っているのであれば
それは嘲笑でしかない
本当の笑いは緩和の中でしか生まれない
お互い人間として対等だからこそ
アホなところ、バカなところ、ドジなところ、くだらないところが見えた時に笑いが起きる
笑うことと嘲笑うことは違う
嘲笑されればみじめに思うが
笑われて救われることもあるのだ
笑われて自分の存在意義を認識できることもあるのだ
自分は集団の中で誰も気にも留めない透明な存在でしかないと感じていたのに
笑われることによって突然光が差し込むかのように
自分の毎日が明るく輝くこともあるのだ
東大生は学業的には間違いなく日本のトップだ
だからといってみんな自信満々な人ばかりでもないだろう
学業も言ってみればひとつの能力にすぎない
明石家さんまは吃音そのものを馬鹿にしているわけではない
語弊があるかもしれないが
面白いかどうかだけだ
人として下に見ているわけではないのだ
笑いの地平において
人間は対等だ