八都宿(はつどまり)ねねは自分を過信しない
先日の『誰も知らない明石家さんま 第10弾』で明石家さんまがVtuberとコラボした
今回の番組内の企画でこれが一番僕は面白かったな
名前は「八都宿ねね(はつどまりねね)」
この「八都宿ねね」がリアクションにしていた「ホントですかぁ~」は明石家さんまのラジオ番組ヤングタウン土曜日のリスナーであれば知っているギャグだ
ギャグというかクラブのホステスさんの口癖を面白おかしく話題に出してそれがその後何回かギャグとして頻発している時期があった
テレビで披露しているのは僕は見たことがなかった
この「ホントですかぁ~」と悩み相談で「自分を過信しない」と答えたことで正体が明石家さんまとすぐにばれるのではないかと思ったが、予想をした人はいたようだが大きくばれることにはならなかったようだ
共演したVtuberは「壱百満天原サロメ」「星川サラ」「白上フブキ」「さくらみこ」「宝鐘マリン」
なんか鬼滅の刃みたいな名前のキャラクターもいる
しかしこんな世界がこんなに活況を呈しているなんて知らなかった
昭和に青春を送った世代にはビックリすることばかりだ
そりゃみんなテレビを見ないはずだ
テレビを見る時間をみんなこっちに使っている
YuTube、各種サブスク、SNS等
情報収集と暇つぶしには困らない時代だ
そして八都宿ねね(明石家さんま)が言った
「自分を過信しない」
この名言をいつも肝に銘じているつもりだが
まだまだ僕は消化しきれていない
すぐに落ち込んでしまう
ついもっと出来たはずだと思ってしまう
今の自分がピークと思えば
もし失敗したり出来なかったりしても
それがその時点での自分の実力でしかない
そして落ち込んで劣等感を抱いて
誰か自分より下に見える存在を勝手に探し
優越感を得ようとしてしまう
劣等感を感じるということは
優越感を探しているに過ぎない
テレビプロデューサーである佐久間宣行の著書『ごきげんになる技術』に
こんな一節があった
「人生に勝者と敗者を作っているのはあなた自身」
僕はハッとさせられた
そうなんだ
結局人生に勝者と敗者があると勝手に自分で線引きしてしまっている
基準を自分で勝手に作ってしまっている
年収がある金額以上あれば勝者ならばそれは一体いくらからだ
高級車を買うことが出来たら勝者なのか
軽自動車は敗者なのか?
結婚したものは勝者で独身は敗者なのか
病気せずに長生きできれば勝者なのか
若くして病死してしまったら敗者なのか
不慮の事故により命を落としたら敗者なのか
障がいを持って生まれたら敗者なのか
一人親家庭は敗者なのか
有名私学に入学できたら勝者なのか
起業して失敗したら敗者なのか
結局答えは自分の中にしかない
ひとつのステータスを得るために頑張ることは別に悪いことではないが
もし勝者という基準を作るとすれば
自分の尺度で
自分の感覚で
自分の人生を楽しむことができた人が勝者かもしれない
そして人生において
勝者も敗者も
本当は存在しないのかもしれない
どれだけ新鮮に感じられるかが勝負やねん
「これからはどれだけ新鮮に感じられるかが勝負やねん」
明石家さんまが以前ラジオで言っていた
明石家さんまも芸歴50年近くになり
芸能界では大御所であり吉本興業ではTOPだ
数々の番組を経験しヒットした番組もあれば
あまり長く続かなかった番組もある
数々の芸能人とも会ってきて今では先輩より後輩のほうが多い年齢になってしまった
芸能人に限らず有名なスポーツ選手やミュージシャンとも会ってきたし
今でも交流が続く人もたくさんいる
ラジオのヤングタウンにおいてはデビューしたばかりの孫の年齢に相当する10代のハロプロアイドルと同じ土俵に立ってトークを展開して笑いに変えている
いくら仕事とはいえ結構大変な事ではないかと思う
もう現在では事務所主導の仕事ではなく明石家さんま本人に仕事の決定権があるみたいだし
芸能界の裏事情なども十分知り尽くしていることかと思う
場数を踏み過ぎて極度に緊張する現場も少ないだろうし
びびってしまうような共演相手も今では少なくなってしまっただろうかと思う
ワンパターンやベタだと言われ方をされる向きもあるが
テレビで見る明石家さんまはそれでも元気一杯だ
このモチベーションはほんとにどこから来るのだろうか
どうすれば新鮮な心持ちを維持できるのだろうか
年齢を重ねると子供のような無邪気な心も減ってくるし
初めての経験というものが減ってくる
無邪気に喜んだり驚いたり新鮮に感動したりすることが少なくなってくる
明石家さんまの人生に比べればスケールはずっと小さく
ささやかな自分の人生においても
長年仕事を続けていれば
新鮮な驚きや新人のように前日の夜に眠れないぐらい緊張する事案というのも少なくなってきた
初めて顧客先の大きな事務所フロアーの大勢の人数の前で挨拶した時など足が震えたものだ
それが経験を積んで慣れてくると緊張もしなくなってくる
もちろんそれは悪いことではなく一つの成長ではあるが
でも初心を忘れていくという弊害もある
何かを手に入れると何かを失っていくものかもしれない
子供のころは新幹線に乗るだけで感動していた
初めて買った中古の車でも一日中乗っていたかったし
自分だけの秘密の部屋みたいな感覚であれやこれやと装飾品を揃えたり
大事に丁寧に洗ったりしたものだが
大人になるにつれコイン洗車でいいやと楽なほうへ流れていく
若い頃は初めて食べるものにはいつも驚いていた
昭和世代の僕にとっては
ドリアやピザやハンバーガーなんてこんな美味しいものが世の中にあるのかと感動したものだ
田舎の喫茶店で飲むレモンシロップと炭酸だけのレモンスカッシュが最高だった
初めて行ったロックコンサートの熱気と高揚感と大合唱にカタルシスを感じその日の夜は興奮して眠れなかった
今では2時間も立ちっぱなしのライブはしんどくなってきた・・笑
デートで初めて手をつないだこと初めてキスをしたこと
すべてが新鮮だった
うーんよく思い出したらなんて純粋だったんだろう
明石家さんまのコント舞台を初めて観た時もテレビと一緒だと感動し
いやテレビより面白いと思ったものだ
明石家さんまと同じ会場内で空気と時間を共有していることに感動したものだ
中学校を卒業して春休みに近所の工場で初めてバイトをした
パートのおばちゃんたちの中で若者はほぼ僕一人
その中で教えられたことを自分なりに一生懸命働いた
すぐ近くだったので昼休みは家に帰り母親が作った昼食を食べる
その時に作ってくれた炒飯が美味しかった
こんなに旨い炒飯があるんだろうかと掻き込むように食べた
今でもあの美味さの記憶は忘れられない
今まったく同じ物を食べてもおそらくなんとも思わないだろうな
下手すりゃ不味いと母親に文句を言ってしまうのかもしれない
初めての労働の後の食事は本当に美味しかった
部活で疲れた後の食事も美味しかったが
また違う満たされ感があった
交通事故で入院して三週間程何も飲むことも食べることができず点滴だけで寝たきりだった
やっとお水を飲んでもOKという指示が出た時の水差しから飲んだ少量の水の上手さも忘れられない
病気になって初めて普段の普通の生活のありがたさを実感して
普通の生活に戻るとそのありがたさを忘れてしまう
人間慣れてしまうと駄目だな
お金を払って得る新鮮な感動というものもあるだろう
でもいくらお金を払っても得ることのできない新鮮な感動もある
決してお金では買えない新鮮な感動はたくさんあるんだ
そして経験して知ったつもりになっているだけで
見落として気付けていない新鮮な感動が
本当はたくさん転がっているはずなのかもしれない
ミッドライフ・クライシス
最近”ミッドライフクライシス”という用語をよく聞く
”第二の思春期”とも言うらしい
人生の中頃を迎える40代~50代に、自分のこれまでの人生やアイデンティティについて問い、葛藤したり不安を感じたりする時期を指すらしい
性機能の低下
身体的な変化と体力の低下
うつ症状や不安、イライラ、集中力の低下
などの症状が出てくる
20代~30代にかけて仕事を頑張ってきた人が40代になって、ある程度の思い描いていたものを手に入れたとしても欲しかったものというのは、手に入れてしまったら意外と喜びが続かなかったり実際は思っていたほどの幸福感が得られず、それどころか体力や記憶力の衰えを感じて、「失うもの」を意識するようになる
逆に若い時に思い描いていた夢や理想はかなわず、いろんなことをあきらめて
自分自身の限界が見えてしまったり、頑張っても大した成長ができないと実感したりして、「この先どうしていいか分からない」と焦燥感を覚えはじめ体調や精神状態に変調をきたすようになってくる場合もある
なんか自分にも当てはまる気がするな・・
いや当てはまっている
自分ではうつ症状が出ていると自覚はしてはいないが
もしかしたら知らず知らずのうちに何がしかの症状は出ているのかもしれない
イライラすることもたまにはある
そして最近は何かと若いあの頃のほうが良かったと懐古するようになってきた
肉体的にも気力も衰えしか感じない
本当に腹を抱えて笑い転げることも少なくなった気がする
でもまだなんとか笑うことはできている
そのたびに少しホッとしてああ笑えていると安心している
若い頃は女性の裸なんて見たくて仕方が無かったのに今ではそれほどムラムラすることもなくなった
これが歳をとるということなんだろうか
老化ということなんだろうか
勝手な想像だがこの”ミッドライフクライシス”は明石家さんまには当てはまらない症状だろうな
現在69歳だが40~50代はもう大物MCへの道まっしぐらだったし
番組も順調だったはずだ
定期的にコント舞台もやっていた
借金もとっくに返済しておそらく金銭的な不安は皆無だろうし
老後資金の不安ももちろんないだろう
でも素人の僕には想像ができない
様々なプレッシャーを乗り越えてきたはずだ
国民的大スターとどこの誰だかわからない自分と比べても仕方がない・・笑
自分には無いものばかり持っている明石家さんまに憧れるのだろうか
そもそもほとんどの人が明石家さんまと同じようにはできない
同じ芸人たちが真似しようとしてもできないんだから
真似しようと思っても真似できないし
明石家さんまは明石家さんまであり
僕は当然明石家さんまでもないし
憧れて好きではあるが
明石家さんまになりたいわけでもない
でもやはり無いものねだりで自分には無いものを持っている人には尊敬と憧れを感じる
自分はいまこの社会の中でどういった一員なのだろうかと思う
職場ではもちろんそれなりの役割があり責任もあり多少の期待や信頼もあるぐらいには真面目に仕事はしているつもりだ
でもそれは世の中の人たちはみんな一緒だ
こういったブログを書くうちに
巷で言われている承認欲求というものがなんか少しわかる気がしてきた
反応があれば嬉しいし、たとえ少ない人数でも読んでもらえたのなら嬉しい
そしてこのブログを書く行為で僕が良かったなと思うのは
自分の感情や思考を認識して整理できる気がすることだ
自分の感情を振り返り、その原因やパターンを認識することができる気がする
悩みが解決できるわけではないが多少は整理できる気はする
誰かを相手に会話で整理することもできるのだろうが
喋り言葉だとどうしても同じことを堂々巡りみたいに話すこともあったりする
もちろん話すことによって気持ちが楽になることだってたくさんある
ただ書くという行為はある程度落ち着いて推敲できるのが利点だ
ましてやこういった不特定多数の人に公開するブログとなれば
読んでもらえるかどうかは別としても
それなりに読んでわかる文章にしようと努力する
その過程において新たに気が付くことがあったり
あれっ、凄く些細な事でしかないなと感じたり
書いているその瞬間は気持ち的には落ち着くことができていたりする
もし精神的パニック状態であったら
ブログを書くことは無理な気がするのだ
みんなどういった心持ちでブログを書いているのだろうか
動機や目的は様々だろう
みんな自分の存在を確認したがっているのだろうか
自分の位置を確認したがっているのだろうか
自分という存在は自分とは違う他人との関係性でしか確認できないのだ
手に「人」ではなく「自分」と書いて飲み込む(さんまの名言)
明石家さんまは若かりし頃に落語家として高座に上がる前に
手のひらに「自分」という字を書いて飲み込み
緊張を和らげていたという
なんかあの明石家さんまも緊張したりするんだと驚きも感じる
一般的には手のひらに「人」という字を書いて飲み込む
そうすれば緊張しないと昔から言われている
一種のおまじないというか自己暗示みたいなものだ
昔からあるおまじないであれば決められた作法を変えようとは普通は思わない
おまじないを勝手に変えたりしたら効果が出ないと思うのが普通だ
「人」という字を書いて飲み込めば「人」に飲み込まれず「人前」で緊張しないというのであれば
緊張している「自分」を飲み込んでしまえば「人前」に緊張している「自分」も緊張しないはずという
ある意味なんだかよくわからない状態でもある
僕は明石家さんまの数々の名言を聞くといつもその発想に驚く
思いもつかない発見や発想というわけでもないような気がするが
でもなかなか思いつかない発想が多い
「なるほど!そういえばそうだ」と意外と単純な視点での発想ばかりだ
難しい言葉で表現するわけでもなく
なにか哲学の本を勉強しての言葉でもない
古くから伝わる事柄に少し違う視点を加えたものが多い
お笑い界の天才と称されるのは
ビートたけしとダウンタウン松本人志だが
明石家さんまは天才とは思わせない天才だと思う
たけしや松本人志にはお笑いに限らず他の事柄においての発言やアイデアに驚くことは多いが
明石家さんまはなんというか身近と言うか
そういえばそうだなとか
ほんの何か少しのひとひねりを加えるというか
アカデミックさを感じさせないのだ
普段の生活の中で誰もが考えそうだけど
でも考えつかない発想なんだ
例えが難しいな
上手い表現が出てこない
さんまはいつも基準は自分だ
他人ではない
妬まない嫉妬しない
今が自分のピーク
失敗したならそれがその時の自分の力だ
だから後悔しない
軸はいつも自分でしかない
自分基準なのだ
これがなかなか出来そうで出来ない
僕なんて人を羨んでばかりだ
嫉妬したりしてばかりだ
なんでこうなるんだろうと後悔ばかりだ
手のひらに
「人を羨む自分」
「人を妬む自分」
「弱い自分」
と書いて飲み込めば
「自分」という
「人」になれるだろうか
笑うことと嘲笑うことは違う
「先日放送された『さんまの東大方程式』(フジテレビ系)のある場面を見た視聴者から、X上でさんまがあたかも「吃音」をイジっているようだと嫌悪感が噴出している。」・・・とネットニュースに書いてあった
Xも見ていないのでどんな内容が書いてあったかも知らないし読む気もしない
しかし人によって捉え方がこんなにも違ってくるものかとビックリする
僕もこの番組は見たがまったくそんな印象ではなかったからだ
別に自分の感じ方がすべて正しいなんて思ってもいないが
僕の感覚では吃音という印象は感じたことはなかったな
O君は喋りたいことや伝えたいことがいろいろありすぎて
それをあせって話そうとするから余計に噛んだり言葉を間違えたりする
その口調や表情がコミカルにどうしても見えてしまう
それを素人いじりの天才である明石家さんまのつっこみやフォローで笑いに増幅変換されているだけだ
そして編集も意図的にそのコミカルさをクローズアップする形になっている
愛のあるいじり方にしか見えないけどな・・
O君の本当の心の内はわかりもしないが
いじられるのが本当に辛く嫌なものであればこれほど毎回出演もしないだろう
もしかして局側から強引なオファーを断り切れず無理から出演しているという可能性も無いわけではないがそんな雰囲気は画面からは伝わってこない
そもそもO君の吃音そのものを笑いたてているわけでもない
表情やお喋りのリズム、佇まいや声質や話題の内容などの総合的な要素が絡み合って笑いになっていて
それが愛されるキャラになっているだけだ
O君は確かに滑舌がいいわけでもないし
わかりやすく流暢に話すわけでもない
O君の気持ちを聞いたわけでもないのに
吃音をいじられて笑われて可哀そうと
勝手に思うことのほうがよほど可哀そうではないか
O君はこの番組の初期から出演していてずっとこのキャラをいじられていて
ある意味この番組の結構な貢献者でもある
そして本人も語っているがこの番組に出演したことによって出会えた人や
いろんな経験ができたことを感謝しているということを歌にしていたはずだ
むしろO君は緊張もしているだろうが結構楽しんでいるようにしか見えない
しかしネットニュースの切り取りの偏向報道も困ったもんだ
どこのだれだかわからないコメントを一部だけピックアップしてあたかも
大勢の意見みたいに仕立て上げる
一部の発言や行動を取り上げて
やれ差別だ
人権侵害だ
モラハラ・パワハラだ
コンプラ違反だ・・など
なんとも窮屈な時代になってしまったものだ
差別なんて今も昔も無くなったことなどない
乱暴な例えかもしれないが
両足の無い人に
「悔しかったら走ってみろ!」と言って
言われた両足の無い人は
「うるせえ!走れるならとっくに走っとるわ!偉そうに言うな!このチビ・デブ・ハゲ!」
こういった口喧嘩が出来るとすれば
ここに差別はない
対等な関係がある
障がい者の反対語は健常者ではない
健常者というのはたまたま幸運にも肉体的にあまり不自由がない状態で生まれ育ったに過ぎないのだ
笑いには根本的に差別や見下す感情は内包されている
自分が恐れおののく存在に対して笑うという感情は湧いてはこない
自分を虐げている権力者が落ちていく様を見て笑っているのであれば
それは嘲笑でしかない
本当の笑いは緩和の中でしか生まれない
お互い人間として対等だからこそ
アホなところ、バカなところ、ドジなところ、くだらないところが見えた時に笑いが起きる
笑うことと嘲笑うことは違う
嘲笑されればみじめに思うが
笑われて救われることもあるのだ
笑われて自分の存在意義を認識できることもあるのだ
自分は集団の中で誰も気にも留めない透明な存在でしかないと感じていたのに
笑われることによって突然光が差し込むかのように
自分の毎日が明るく輝くこともあるのだ
東大生は学業的には間違いなく日本のトップだ
だからといってみんな自信満々な人ばかりでもないだろう
学業も言ってみればひとつの能力にすぎない
明石家さんまは吃音そのものを馬鹿にしているわけではない
語弊があるかもしれないが
面白いかどうかだけだ
人として下に見ているわけではないのだ
笑いの地平において
人間は対等だ
老害とナイスガイ
明石家さんまの声が一時期出なくなっていた
大分良くはなってきたらしいがなんか心配だ
20代30代の音源と聴き比べると相当にがさがさになっている
少しでもこの先長くテレビでの姿を見たいファンとしては
もし一か月でも休養したら少しでも良くなるのであれば休んで欲しいと思うようになってきた
今年69歳で来年は満年齢で古希を迎える
世の中の同年齢に比べたら圧倒的に若く元気だ
声が出ないだけで他はすこぶる元気らしい
滑舌が悪くなってきたとかいろいろ言われるが
反射神経や瞬発力
ノールックでのネタ振りのキラーパスは未だ健在だ
フジテレビの27時間テレビにおいての『さんまのお笑い向上委員会』で霜降り明星の粗品は宮迫との件で
「なんかラジオで“粗品にはちょっと説教せなあかん”みたいな。アレなんやねん?」
とMC明石家さんまにかみつき、
さらに「西川のりおとか、あと、嘉門達夫とかも首ツッコんできて。“粗品のアレは愛がない”とか、“あいつはちょっと言い過ぎ”とか、みーんな老害!」と言った
それに対してさんまはすかさず自分を指差し自身を「老害!老害やろ(笑)」と誉め言葉のように喜んで笑っていた
生放送のためどんな雰囲気になってしまうのかとは思ったが
さんまはすかさず西川のりおと嘉門達夫に話が流れそうになるのを瞬時に食い止めるかのように自分へ矛先を向けて老害と言われて喜ぶお調子者を演じた
霜降り明星のせいやも「ナイスガイみたいないい言葉とは違うんですよ」と秀逸なツッコミを入れていた
そもそもテレビをあまり見ない若い世代には明石家さんまはどう見えているのだろうか
ネット記事などではたまに老害と揶揄される向きもある
若い世代にとっては明石家さんまが表舞台から消えたとしても
日々の生活にはたいして影響がないのかもしれないが
50年近く当たり前のように常にテレビで見てきた僕らファンにとって
明石家さんまがいなくなることは恐怖でしかない
芸能人の引退なんてみんないずれ順番にやってくる
誰がいなくなってもそのあとはなんだかんだと誰かが引き継いで繋がって続いていく
そんなことはわかっている
でも僕にとって明石家さんまの不在は恐怖でしかない
でもその時は必ずやってくる
さんまの笑いの技術やスタイルは
今の世代にはもしかしたらピンとこないのかもしれない
今の第7世代やM1やキングオブコントに出場する芸人たちのほうが面白く感じていても不思議はない
それは世代が流れて時代が流れて
生きてきた時代が違うので当たり前だ
今の若者には今の若者文化がある
僕にも好きな若い芸人はたくさんいる
「老害」とは「老齢による弊害」のことらしい
話が長くてくどい
若い時の武勇伝や成功した話を延々と話す
「昔はいい時代だった」
「最近の若者は礼儀がなってない」など・・
自分も若い時は上司にいつも同じ話をされるのが苦痛で仕方がない時があった
でも今は自分がその時の上司の年齢になってしまった
なるべく「くどい話はやめよう」「昔の自慢話は控えよう」と気を付けているつもりではあるが
もしかしたら知らず知らずのうちに若い世代に苦痛を与えているのかもしれない
若い頃に見ていた50代60代はすごく大人ではるか先の年齢と感じていたが
気付いたらあっと言う間に自分がその年齢に近づいている
でも気持ち的には20代30代と変わらないと思っていることもあれば
若い時とは違い年齢を重ねて違う考えを持つようになってきたこともある
今の若い世代にしかわからない楽しさがあり
今の若い世代にしかわからない苦しさがあるのだろう
でも僕は今の時代を冷静に客観的に眺めれば眺めるほど
70年代80年代のほうが良かったのではないかと思えてしまう
あの頃はスマホは無かった
パソコンも普及はしていなかった
ビデオ録画も一般家庭に普及したのは80年代半ば以降ではないか
でも僕たちはテレビをリアルタイムで見て
その話題を学校で友達と共有し
音楽はラジオとレコード
その他の情報は新聞・雑誌・漫画・書籍など
今より圧倒的に情報は少なかったが
それなりに楽しかったと思う
何かを調べるのも
辞書や百科事典
図書館で調べる
誰か知っている人に直接聞きに行くしかなかった
老害と言われてしまうようなお年寄りが
博識でいろんなことを知っているということもあったのだ
簡単に手に入れた者は簡単に忘れていってしまうものだ
カーナビに慣れてしまうと道もなかなか覚えることができなくなってきた
サブスクやYuTubeなどで手軽に音楽を聴けるようになってしまうと簡単に聴いて簡単に忘れてしまう
便利で効率的なことはとても快適だ
生活も楽なほうがいい
不便な世の中に戻りたいわけでもない
ただ楽なことと楽しいこととは同義ではない
僕たちは何かを手に入れたら何かを失い
僕たちは何かを失ったら何かを手に入れる
僕は年齢を重ねて
何かを失ってきているのだろうか
何かを手に入れているだろうか
しあわせって何だっけ
♪しあわせって何だっけ 何だっけ
ポン酢醤油のある家(うち)さ
明石家さんまが出演した1986年のキッコーマン『ぽん酢しょうゆ』のテレビCMで歌ったフレーズだ
2009年にも同じさんま出演によるリメイク版(「ぽん酢しょうゆ」を「うまい醤油」に差し替えたもの)も作られた
2011年にはヤマサ醤油の『昆布つゆ白だし』のCMにおいて
大竹しのぶとIMARUが共演し
「幸せって、これよね」というセリフで
アンさーCMみたいな形な粋な演出もあったと記憶している
『しあわせって何だっけ』というフレーズは
いたって単純で簡単な言葉だが
でもよくよく考えれば深い言葉だ
幸せとは何だろうか
美味しい物を食べている時
家族団欒の食卓
子供の成長
健康で毎日を暮らせること
富と名声を得ること
自分の好きな趣味やスポーツを楽しむこと
ボランティア活動で困っている人を助けること
自分の仕事で社会に貢献できていると実感すること
人によって感じ方は様々だ
明石家さんまの有名な座右の銘
『生きてるだけで丸儲け』のように
この世に生を受けて
日々なんとか生きているだけでも最低限いや最大限の幸せかもしれない
しかし、そうなかなか謙虚に受け止めることもできない人も多いと思う
僕自身もそうだ
仕事のストレス
人間関係のストレス
経済的不安
健康的な不安
既に病気と闘っている人もたくさんいる
不慮の事故により身体障害になってしまう人もいる
経済的に何も困ってはいないのに孤独と寂しさで自分を不幸と思う人もいる
自分の事を犠牲にして子供のために頑張る母子父子家庭の人たちもいる
子供を授かることができない夫婦もいる
経済的にも余裕があり人気もあるのに
自ら命を絶ってしまう芸能人もいる
他人から見たら幸せそうにしか見えない家族も
もしかしたら家族みんな心が離れ離れで苦しんでいるかもしれない
一人暮らしできっと寂しいだろうと思える人が
実は悠々自適でストレスとは無縁で楽しく暮らしているかもしれない
状況や運命は不幸せの原因なのだろうか
どんな状況でも幸せは見つけることはできるのだろうか
それぞれの環境で自分を不幸と思う人もいれば
人から見れば悲惨な状況に見えても
自分は幸せと言える人たちもいる
お金で買える幸せもあるだろうし
お金では買えないどこにも売っていない幸せもある
幸せは数値で測る基準値もない
自分で感じるしかない
自分で感じるしかないということは
自分次第でどうにでもなるとも言える
明石家さんまには『笑い』という絶対的な幸せの基準がある
笑うのは僕でありあなただ
何で笑うかは僕次第でありあなた次第だ
哀しみや寂しさや怒りの反対が『笑い』ではない
赤ちゃんは産まれてすぐに泣く
そして言葉も覚えないうちに笑うのだ
誰かに笑わされて笑うのではなく
自ら笑うのだ
僕たちは物覚えもない時から自ら笑っていたはずなのだ
大人になるに連れてこの笑いを忘れていく
誰もが産まれた時に持っていた
その笑いを
その笑顔を
思い出すんだ