さんまのチカラ

今までの人生で辛いことがあった時に 少しでも笑いたくて憧れて追いかけてきた

人の悪口、浮かばないねん


明石家さんま「俺、嫉妬心ないから、人の悪口浮かばないねん」
中川家礼二 「たしかに、さんまさんの悪口聞いたことないですね」
明石家さんま
「人の悪口、人生六十年間、言ったことないと思う。そやねん、浮かばないねん」
間寛平   
「ホンマですわ。二十年以上ゴルフやって、ずっと帰るとき、車の中にショージと俺とさんまちゃんと三人いてるけど、人の悪口言ったことないですわ」

確か『明石家電視台』か何かでの会話だったと思うが、普段から他人への嫉妬がないと言っているから他人の悪口も言わないのだとは思うが
驚くのが「悪口が浮かばない」ということだ

「人の悪口を言わないように気を付けよう」とは思うが
「人の悪口が浮かばない」となると次元が違う

人に対して優越感も持たず、劣等感もないからなのだろうか
明石家さんまは普通にこう言っているが、なかなかの境地だ

人の悪口を言ったら少なくとも自分の悪口も少なくとも同じ量は言われているものではないかと思うのだが、浮かばないとなるとさてどうしたものか

人から意地悪をされたと感じたら
それは自分にも意地悪な感情があるからそう感じるのであって

人に馬鹿にされたと感じたら
自分も人を馬鹿にして見下す同じ感情があるからそう感じるのであって

人からの優しさを感じたら
きっと自分にも同じ優しさの感情のかけらがあるのだと思っている

ということは人の悪口を言うということは
ある意味自分の中のいやしい悪意を語っているにすぎないのかもしれない
いくら限られた人だけに隠れて言おうと
自分で独り言として言おうと
自分の悪意を放出しているだけなのかもしれない


そして逆に人から受けた優しさを感じて語るということは
自分にも優しさのかけらがあることを感じて
その自分のささやかな優しい心を
人の優しさをまとって語っているということかもしれない

結局は自分自身の心の在りよう次第なんだ

 

失われた30年の中で何を失ったのだろう

バブル崩壊後に10年経過した時に"失われた10年"と評された
経済成長の観点からの名称だが
それからあっという間に"失われた30年"になってしまった

バブル景気には僕は特段恩恵を受けてはいないが
あの頃は銀行預金の利率も高かったし生命保険も配当金があるものもあった
先行きは明るい未来が待っていると思っていてとても楽観的な時代だったと思う

80年代を知る世代にとっては今の日本の現状は沈みゆく船にも見える

災害復興の遅れ
高齢者の増加と介護問題
社会保障費の高騰
長引く不景気
増税
政治不信・・

暗い話題ばかりだ


昔も災害や悲惨な事件、芸能スキャンダルももちろんあった

でも今のように刑事事件にもなっていないのに一人の人間をここまで追い込むような風潮はなかった

異性問題なんて世の常であり、芸能人や政治家に限らず
一般社会でも山ほどある
今も昔も変わらない

そして30~40年前はテレビも元気だった
今では考えられないような企画やコンプライアンスの「コ」の字もない無茶苦茶な放送もたくさんあった
そして面白い番組がたくさんあって楽しかったけどな


当たり前のことだが時代は巡り変遷して技術も文化は変化していく

でも人間の喜怒哀楽の感情は古くから今に至るまできっと変わってはいないだろう

人なんてたいして変わらないんだ

人の喜怒哀楽なんて昔から変わってないはずだ

愛する子が生まれれば喜び
愛する人が傷つけられたら怒り
愛する者が亡くなれば哀しみ
愛する人が笑えばうれしい

人に恋して
人を羨み
人を妬む

人を敬い
人を陥れ
人を蔑む

自分を律し
自分を褒めて
自分を励まし
自分を慰める

自分に挫折し
自分を嫌悪し
自分を愛す

人に励まされ
人に笑われ
人を笑う

努力が報われないことを嘆き
努力が報われれば喜ぶ

人は間違いを犯し
人は反省する

人は過ちを犯し
人は後悔をする


人を嘲笑っている暇があれば
自分を笑え

人と笑い合うことができれば
楽しいはずだ、きっと


楽しく笑うことに
株価も為替相場も関係ない
コンプライアンスも関係ない

人生に必要不可欠なのは

「喜怒哀楽+笑」だ

 

笑いの根底にある覚悟と矜持

 

1994年のビートたけしのバイク事故における退院記者会見を見た時は驚愕した
顔面麻痺がまだ残る状態で目はあらぬ方向を向き口はゆがんだままだった
正直に言って申し訳ないが異形だった

それ以上に驚いたのはその見た目の異形より
芸人としての覚悟と矜持だ
肚(はら)の括り方が違う

自分だったら鏡をみて悲観し生きていく気力も萎えてしまう気がする
ましてや人前に堂々と出て撮影されたり喋ったりなんて出来る気がしない

常に死を見据えて生きることを語っていたたけしは身をもってその矜持を体現していた

ある意味お笑いとは対極の表現でお笑いに向き合っている

「治らなかったら、芸名を顔面マヒナスターズにします」
「頭に入っているボルトのせいで金属探知機に引っかかる」

自虐ネタで笑いを誘うたけしには心底震えた
こんな覚悟で芸人になるのなんて自分には無理と思った
もちろん芸人を目指したことなんて無いが
自分の人生にあてはめてみた時に
同じ態度と行動をとることができるだろうかと考えたら
自分の人生に対する覚悟に自信がなくなってしまった

たけしには生きることと死ぬことに対する覚悟と
芸人としての矜持が凄みとして醸し出ている

そして狂気を含んだ何かを見据えるような目だ
他の芸人や他の芸能人と比べて一線を画す何かがある

貧富の差、家庭環境の違い、
社会的立場の違い、様々な価値観を
おもちゃ箱をひっくり返すようにして語り
世間の一般常識に楔を打ち込み
権力者たちが蠢く社会を
笑いと毒舌を武器に突破してきた
その姿はなんともかっこいい

ビートたけしの弟子である東国原英夫が以前テレビで言っていた

たけし軍団のみんなと飲みに出かけてドンチャン騒ぎをして散々飲んで帰宅した後に、殿は物理学か宇宙かなにかの難しい本を読んで勉強しているんですよ。もう頭がおかしいんじゃないかと思いました(笑)」

勉強のためというより好奇心のエネルギーが半端ないのだろう

今の若い世代にはビートたけしの何が面白くて何が凄いのかは
あまりわからないだろうが
オールナイトニッポン』の喋りのスピードと頭の回転の速さは圧倒的だったし
オレたちひょうきん族
スーパージョッキー
天才・たけしの元気が出るテレビ!!
ビートたけしのスポーツ大将』
たけし・逸見の平成教育委員会
痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』など
その後の他の番組のフォーマットとなるような企画を多数手がけている

発言や執筆も注目されるし、絵も描く
そして映画監督としては海外では「世界のキタノ」として評価されている
ビートたけしが芸人の地位を何段もステップアップさせたのは間違いない

僕はビートたけしのような毒舌系の笑いより
明石家さんまのシンプルな笑いのほうが好みなのだが
でも明石家さんまと同様に
ビートたけしのこともたまらなくかっこいいと思うのだ

 

万物からエネルギーを集めて投げる『元気玉』ならぬ『笑い玉』

 

亡くなった鳥山明の『Dr.スランプ』の連載がスタートした時に読んで子供心に驚いた
絵の上手さが半端ないのだ
キャラクターデザインもメカの造形デフォルメも最初から他とは違い群を抜いていたし
配色センスも抜群だった
当時はまだ子供だったので技術的なことはわからなかったが
絵がめっちゃ上手いと衝撃を受けて読んだ記憶がある

当時の多くの漫画家はGペンで描いていたと思うが
確か鳥山明ロットリングで描いていたと何かで読んだ
ロットリングは製図用の筆記具で太さはいくつか種類はあったが
Gペンのような強弱はつけにくいが均一な線は描きやすい
いわゆる「漫画の描き方」みたいな本にロットリングを使用するとは書いてあった記憶がない
デビュー時からいろんな意味で革新的な存在だった

精密に写実的に描く画力のある漫画家はいるが
鳥山明はデフォルメの巧みさが素晴らしく
三頭身でも八頭身でもバランス良く描かれていて
またマンガのキャラとしての愛敬も備わっていた
すべてにおいてレベルが最初から高かったと思う

ドラゴンボール』が世界に誇る日本のコンテンツであるのは間違いない
もちろん手塚治虫藤子不二雄など先人たちの作品も評価されたが
そのギアを何段も上げて世界に普及させた功績は大きい

生まれ持った才能というのはやはりあるんだな
修練と努力である程度までは力はつくのだろうが
同業の漫画家たちがその才能に驚くのだから相当凄いのだろう

線のタッチ、デッサンと構図
コマ割とネーム
擬音効果、ストーリーとキャラクター
来週も読みたくなるような展開など
マンガ制作には総合的な技術が果てしなく必要だ

そして何十年も作品を生み出し続けて
人気を保つなんて想像を絶する

莫大な印税収入があり
生活における経済的安定は約束されている上で
イデアを絞り出して書き続けるとなると相当な精神力が必要だ

どんな仕事でもそうだが
モチベーションを保つことが一番の困難なことなのではないか

富を得てしまえば
這い上がろうとするハングリー精神は枯渇するし危機感は希薄になる
やはり好きかどうかにつきるのではないか

描いていたい
描きたい
新しい漫画を生み出したい
読者の喜ぶ顔が見たい

最強なリビドーは
やはり「好きだ」ということに尽きる


そして『ドラゴンボール』のアニメは確か水曜日に放送だった
放送開始当初は『オレたちひょうきん族』の収録が毎週水曜日であったため明石家さんまは見たことがなかったという
随分経ってから次長課長井上聡に「面白いから是非読んでみてください」と全巻プレゼントされて読んだという
さんまはMCの仕事が多いため話題に出そうな情報には常にアンテナを張り
若者の文化にも可能な限り興味を示すことは必要なこととしている
好奇心が旺盛で常に笑いのネタになるかもしれないと面倒なことでも自ら大変な方へと作業を選ぶという
そこで少しでも話のネタになりそうなことや面白いことに出会えたたら儲けものだという考えだ
そういったことが刺激になり若さの秘訣になっているのかもしれない


麒麟川島明は体調が悪いときでもさんまと仕事をすると体調もよくなり元気が出てくるそうだ
パワースポットみたいな存在だといっている

誰かと会って元気をもらいたいとは思っても
誰かに元気を与えることはなかなかできない

誰か僕に元気をくれよとおねだりばかりでなく
相手にすがるだけでなく
依存するだけでなく
自然と元気を相手に与えることができたらいいな

やはり自分自身が楽しんで笑っていないと
相手にも笑顔を注ぐことができない
強迫観念で無理に笑顔になるのではなく
そう自然に
親が子供に向ける笑顔が自然で素敵なように

明石家さんまはこの単純なことを普通に楽しんでやっているだけだ
それが『元気玉』となって放出されている

万物からエネルギーを集めて投げる孫悟空の『元気玉』ならぬ

万物から笑いを集めて投げる明石家さんまの『笑い玉』だ

 

池江璃花子 ― 自分の病気を受け止めて自分で立ち向かった

 

「あの、明石家さんまさんが言っていた“生きてるだけで丸もうけ”っていう言葉。間違いないなって、もう心の底からそう思って、とにかく水泳をやるより、生きていること。こうやって生きて、みんなと一緒にいることが一番だなって思う」

急性リンパ性白血病の闘病を経て池江璃花子はパリ五輪代表入りを決めた


明石家さんまの「生きてるだけで丸もうけ」の言葉を胸に
生きていることに感謝をすることから新たに出発をして
そして必ず復活することを宣言して
不屈の闘志で本当に戻ってきた

若いのに尊敬する
その笑顔や淡々とした表情
お涙頂戴でもない
すべて自分が選んだ道を
自分のために
自分を支えてくれた人たちのために
自分の好きな道を進んでいるだけだ

自分の病気を受け止めて
そして受け入れて
そして自分で立ち向かったんだ

キャリアを積んだ年長者からはもちろん学ぶことは多いが
自分より年下の若い人達からもたくさんの学びがある
健康体であってもオリンピックなんて限られた人たちだけしか行けないのに
治療によって体力も筋力も落ちてしまって
そこから這い上がるなんて
それも代表入りだ
想像を絶する努力があったはずだ

でもその淡々とした姿には
辛かったアピールも
自分は頑張りましたアピールも全然ない
見てるこっちが白血病のことを忘れてしまうくらいだ
本当に敬服する

年齢ではないんだ
早い遅いもない
いつの時代でも出来る人と出来ない人がいるだけだ
若かろうが年老いていようが
自分をわかっている人はわかっているし
わかっていない人はわかっていない
いつまでたってもわかろうとしない人はいる
向き合おうとしない人と向き合おうとする人がいるだけで
受け入れようとしない人と受け入れようとする人がいるだけだ


人生を賭けて
水泳という大好きなことに出会えたことは幸運であり
何よりの才能なんじゃないだろうか
何もかも捨ててこの道に挑戦したいと思えるほど好きなことに出会えるのっていいな
探せば見つかるものなのだろうか
努力すれば見つけることができるのだろうか


「人間が本当に愛するものを見つけるのはとても大変なことで、それがすべて、要するに人生の中心だと思うね。一生かかっても、ついにそれが見つからない人も多いと思うんだよ。だけど、ドアが閉まっていても、いつかは絶対に自分の好きなものが見つけられると、そういうふうに導かれているんだと信じることだね。だいたいは、どこもかしこも閉まっていると絶望的になっちゃうんだよ。だけど、あっちこっち叩いているうちに、どこかのドアがポンと開くと思うんだね。その開いたドアが、自分のいちばん求めている、愛するものへの道だと、とりあえず信じるんだよ。そこへ入る、またドアが全部閉まっている。必死になって叩くと、またひとつだけドアが開く。そういうところをひとつずつ通過しているうちに、いつか、ものすごい光が自分の中に出てくるはずなんだよ。」
『イリュージョン』(リチャード バック)

好きなものを見つけることに早いも遅いもない
スポーツでも芸術でも歌でも絵画でもゲームでも読書でも
釣りでも料理でも旅行でも子育てでも
仕事でも友達付き合いでも家庭生活でもカラオケでも
楽器演奏でも映画でも漫画でも執筆でも
なんでもいい

好きであることが一番の才能であり
それに出会えたことが一番の幸運だ

 

お天道様が見ている


テレビというメディアが普及し始めた際に社会評論家の大宅壮一は「一億総白痴化」「一億総評論家」と評した
テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまうと嘆いた

そして現代はSNSや配信、YouTubeの普及により、若い世代はテレビを見ることが少なくなってきた

今や「一億総評論家」というか「一億総コメンテーター」みたいだ
事件やスキャンダルが起こるたびに、スマホとネット環境さえあれば、誰でも匿名で自分の意見や感想を発信できる

メディアやツールの進歩とともに、発言形態が進化していくことは、とてもいいことだ
このブログもそうだ
昔は発表するメディアは新聞や雑誌くらいしかなかった
それも掲載されるかどうかは編集側の判断に委ねられる
今はアカウントさえあれば、見てもらえるかどうかは別としてもとりあえず発信はできる

しかしSNSの普及により
「誹謗中傷」「承認欲求」という言葉も四文字熟語のように普及してしまった

「承認欲求」はさほど人に危害を与えることは少ないだろうが
「誹謗中傷」は時には人の心を崩壊させ、時には死にまで追いやってしまう

他人のことをどう思おうが、どういうふうに受け止めようが、どう感じようが
各個人の自由であり、人によって感じ方や考え方は違うので仕方がない

ただし思うことと人に言葉で伝えることとは別物だ

 

理解できないのは自分が嫌いな事柄や人に対して
わざわざ労力と時間を費やして
汚い言葉で対象となる人物を攻撃することだ
暇なのだろうか

嫌いな映画をお金を払ってわざわざ足を運んで観に行くようなものだ
自分が嫌いで食べたくない料理をお金を払って食べにいくことと同じではないか
自分が嫌いな人が困ったり落ち込んだり
社会的地位を失ったりしていく姿を見ることが楽しいからなのだろうか

それは嫌いではなく逆に好きで気になっているという裏返しなのではないか


人の噂話や悪口は昔なら井戸端会議、少し前なら会社の給湯室で繰り広げられた
人の悪口というのは今も昔も甘い蜜であるのには変わりはない

言論の自由はあるが誹謗中傷を自由にして良いという意味ではない

自由とは本来は不自由なもののはずだ
自由であるからこそ自らが基準を作り自分を律し選択をしていかなければならない
人それぞれポリシーも違うし感性も違うし考え方も違う

好き嫌いや趣味嗜好は千差万別だ
多様性を求められる社会であるならば
芯を支えるのは品性しかない

「お天道様が見ている」という昔からある言葉は真っ当な言葉だと思う

自分を安心させたいために
嘲笑う対象を探しているのだろうか

人を嘲笑うことは、人間の業の一部であるから
多かれ少なかれ誰にでもある
偉そうに言っている自分にもある

でも僕が望む「笑い」はその対極というか別次元の笑いだ

だから僕は
他人に嫉妬せず
自分を過信しない
明石家さんま
大好きなのだ

 

笑いは幸せの同伴者

 

生きたくても
生きようとしても
生きられない人がいて

生きなければと思いつつも
生きることに光を見つけられず
生きないことを自ら選ぶ人もいる

幸せでありたいと願う人がいて
幸せと思いたいという人がいて
幸せと思える人がいる


不幸になりたいと願う人は少なくて
不幸だと思う人は多い


笑いたくても
笑おうとしても
笑うことができない人がいて

笑わなければと思いつつも
笑うことに光を見つけられず
笑えないと思い込んでいる人がいる


幸せが笑いを運んでくるのだろうか
笑いが幸せを運んでくるのだろうか

少なくとも笑っているその瞬間だけは
不幸の概念は心を支配してはいないだろう

幸せという言葉と概念を人類が作り出したから
不幸という言葉と概念が生まれてしまった


引き寄せの法則
悪口や妬みばかりを口にする人には
そういう同じ人たちが集まり
笑顔で笑っている人には
自然と笑顔の人たちが集まってくる

笑いは幸せの同伴者だ

幸せとは
あなたが
僕が
自分が感じることであって
笑うのはあなたであり僕だ