さんまのチカラ

今までの人生で辛いことがあった時に 少しでも笑いたくて憧れて追いかけてきた

お天道様が見ている


テレビというメディアが普及し始めた際に社会評論家の大宅壮一は「一億総白痴化」「一億総評論家」と評した
テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまうと嘆いた

そして現代はSNSや配信、YouTubeの普及により、若い世代はテレビを見ることが少なくなってきた

今や「一億総評論家」というか「一億総コメンテーター」みたいだ
事件やスキャンダルが起こるたびに、スマホとネット環境さえあれば、誰でも匿名で自分の意見や感想を発信できる

メディアやツールの進歩とともに、発言形態が進化していくことは、とてもいいことだ
このブログもそうだ
昔は発表するメディアは新聞や雑誌くらいしかなかった
それも掲載されるかどうかは編集側の判断に委ねられる
今はアカウントさえあれば、見てもらえるかどうかは別としてもとりあえず発信はできる

しかしSNSの普及により
「誹謗中傷」「承認欲求」という言葉も四文字熟語のように普及してしまった

「承認欲求」はさほど人に危害を与えることは少ないだろうが
「誹謗中傷」は時には人の心を崩壊させ、時には死にまで追いやってしまう

他人のことをどう思おうが、どういうふうに受け止めようが、どう感じようが
各個人の自由であり、人によって感じ方や考え方は違うので仕方がない

ただし思うことと人に言葉で伝えることとは別物だ

 

理解できないのは自分が嫌いな事柄や人に対して
わざわざ労力と時間を費やして
汚い言葉で対象となる人物を攻撃することだ
暇なのだろうか

嫌いな映画をお金を払ってわざわざ足を運んで観に行くようなものだ
自分が嫌いで食べたくない料理をお金を払って食べにいくことと同じではないか
自分が嫌いな人が困ったり落ち込んだり
社会的地位を失ったりしていく姿を見ることが楽しいからなのだろうか

それは嫌いではなく逆に好きで気になっているという裏返しなのではないか


人の噂話や悪口は昔なら井戸端会議、少し前なら会社の給湯室で繰り広げられた
人の悪口というのは今も昔も甘い蜜であるのには変わりはない

言論の自由はあるが誹謗中傷を自由にして良いという意味ではない

自由とは本来は不自由なもののはずだ
自由であるからこそ自らが基準を作り自分を律し選択をしていかなければならない
人それぞれポリシーも違うし感性も違うし考え方も違う

好き嫌いや趣味嗜好は千差万別だ
多様性を求められる社会であるならば
芯を支えるのは品性しかない

「お天道様が見ている」という昔からある言葉は真っ当な言葉だと思う

自分を安心させたいために
嘲笑う対象を探しているのだろうか

人を嘲笑うことは、人間の業の一部であるから
多かれ少なかれ誰にでもある
偉そうに言っている自分にもある

でも僕が望む「笑い」はその対極というか別次元の笑いだ

だから僕は
他人に嫉妬せず
自分を過信しない
明石家さんま
大好きなのだ