さんまのチカラ

今までの人生で辛いことがあった時に 少しでも笑いたくて憧れて追いかけてきた

会話が上手な人は聞くことで会話をしている


明石家さんまのように
会話が上手くて
喋りで周りの人たちを笑わしたり
盛り上げたり
和ましたりできる人が羨ましかった
いや今でも羨ましい

コミュニケーションが上手い人が羨ましかった
人前で緊張せずに堂々と喋る人が羨ましかった
いや今でも羨ましい

明石家さんま島田紳助笑福亭鶴瓶上岡龍太郎ダウンタウンなどの話芸を何度も見てきた
優れた芸人たちの頭の回転の速さは尋常ではない
全盛期のビートたけしオールナイトニッポンでの喋りは驚異的だった
面白がるためにはたけしの喋りのスピードについていく体力が必要なほどだった

別に芸人になりたかったわけでもないし
もちろんなれるとも思っていない

どうしたら上手く人と話ができるのだろうかと思って見ていた

身近でも会話上手な人たちをよく観察した
何が違うのか
どう話しているのか
表情はどんな感じか
手足や体はどう動いているか

わずかだがそれなりのセオリーというかパターンがわかってきた
みんな聞く表情と相槌のバリエーションが柔軟だった
そしてちゃんと相手を見ていることだ
目をそらさずじっと見つめるというのではなく
さりげなく動きや表情を変える中で相手をちゃんと見ている

リアクションも柔軟で豊富だ
顔を少し傾けたり
瞬きや目の開き方の動きを変えたり
相槌と表情の動きのバリエーションが細かく豊富で
時には大げさに
時には小さく
対応のリズムが柔軟で画一的ではなく
そしてさりげない


おそらく重要なのは相手の呼吸に合わせることだ
呼吸を合わせるということはリズムと間を合わせることだ
それが効果的にグルーブしたものが
優れた漫才だったりフリートークなんだと思う

訓練で頭の回転は早くなるものかどうかはわからない
ただ話題の引き出しは多い方がどんな場面においても幅が広がり
相手の話を余裕をもって聞くことできるだろう

でも知識の引き出しは無いよりはあったほうがいいが
相手が興味のない知識情報をたくさんぶつけても
相手は辟易するだけだ

知識や情報は広く浅くあればいいし
キーワードだけ知っていればよく
相手が詳しければ相手に存分に喋ってもらえばいい

聞き上手な人は知識だろうが愚痴だろうが
きちんと聞くことと聞き流すことの混ぜ方というか
バランスがいいのだと思う


会話が上手い人は
みんな聞き上手なのだ
相手が心地よく話せるように
リズムと呼吸をあわせていくのが上手いのだ

芸人ではないのだから
ウケなくても
笑いが起こらなくてもいい

会話が上手な人は
聞くことで話している
聞くことで会話をしている

上手く話そうとするから
本質から遠ざかっていってしまう

その場限りの会話なんていくらでもあり
すぐに忘れてしまう会話もたくさんある

でもその瞬間だけでも
誠実に相手に向き合えば
かならず会話はできるはずだ

 

会話の本質は言葉を発することではない

聾啞者同士の会話を近くで見たことがある

声を発していないので見ていたことになるが
でも会話を聞いているようだった

手話を使って
相手の目を真っ向から見て
表情をぶつけ合っていた

まるでケンカのように
必死に伝えあっている
必死に相手の言わんとすることを読み取ろうとしている
必死に自分の言いたいことを伝えようとしている

手話で会話をして
笑いあってもいる
言葉を発することなく笑いあっている

そこには上手く話そうとか
これを言ったら変に思われるだろうかとか
余分な神経を使っていない

中途半端な探り合いもないし
見栄も虚栄心も
すかしたカッコつけもない

情報と気持ちを必死に伝え合おうとしているだけだ


会話とコミュニケーションの本質がここにある

伝えようとする思い
伝えたい思い
相手を知りたいという思い
相手の言いたいことを汲み取りたいという思い
それさえあれば会話はできる

ウケなくても
笑いが起こらなくてもいい
上手く話そうとするから
本質から遠ざかっていってしまう

当たり前のように声を出すことができるから
当たり前のように耳が聞こえるから
僕たち健常者は上手に話そうとしてしまい
これを言ったらなんて思われるだろうかと気にしてしまい
余計な事を言ってしまって相手を傷つけてしまう

声を発することができてしまうばっかりに
耳が聞こえてしまうばっかりに
大切な事が言えず
大切な事を聞き逃してしまう

口が達者なら会話が成り立つとは限らない

会話の本質は言葉を発することではない

言葉の奥にある思いを
見せ合うことだ

 

不適切な言葉や表現があるのなら、適切な言葉や表現とは一体なんだ

 

不適切とは一体なんだろうか

逆に適切な表現とはなんだろうか

誰が基準を決めるのか
クレームがあったらすべて不適切なんだろうか
クレームを恐れて表現を変えたりすることは表現として適切なのか

その人に差別する心があったとしても適切な表現と判断されればOKなのだろうか

人の心に差別心というのは多かれ少なかれ必ずあって
無くなることはないと思うが
問題が起きそうだからと曖昧にして触れないようにしていっているだけなような気がしてならない

表現に蓋をして
意図しない表現に変えて
適切な表現とするのは
果たして「表現」なのだろうか

不適切とは「適切ではない」ということだ
それならば「適切」の定義が確固たるものでなければならないはずだ

テレビにおける放送禁止用語や不適切に相当するかどうかの判断は
「放送現場の倫理に関する委員会」が規定するものに準拠するらしいが
放送禁止用語なんてもう増えすぎて覚えきれないのではないか

差別も人権侵害も雇用格差も今まで消えたことなどない
日本だってほんの数百年前まで士農工商身分制度があり
その下とされる穢多・非人もあり
それは部落問題として残った

今はもうあまり聞かないようになったのかもしれないが
僕らの若い頃はまだ囁かれていて
それによって結婚も破談になった話も聞いた
友人も在日問題で就職できなかった大手企業があった

差別をあらわにすれば良いということではない
それによって傷つく人がいるのなら慎重にならなければならない
ただ、曖昧にして見なかったこと聞かなかったことにして
ごまかした表現で果たしていいのかということだ

僕たちが小学生の頃は教科書に普通にのっていた
士農工商」「穢多・非人」も現在はテレビにおいて放送禁止用語みたいだ
名称・通称・俗称の言葉であり単語であり言葉に罪はない
使い方と使う人の心に差別があるだけではないのか


身体的事象を表現する言葉や民俗文化の歴史を封印していってるだけだ
もちろん時代が変われば新しい言語が生まれ
消えていく言語はある

昔の純文学のほうがよっぽど性愛や恨みや怨念、差別問題を扱った作品は多い
ドラマや映画などでは原作に忠実なセリフなどもう書けないのだろうか

人を傷つける笑いとはどんなもので
やさしい笑いとはどんなものだろう

綾小路きみまろのネタなんて高齢者のおじさんおばさんをいじるネタであんなに集客できるのに
今の時代ではテレビではもう無理なのだろうか

笑いは面白いか面白くないかの違いだけではないのか
そこにそれぞれ笑いの好みがあるだけではないのか

僕も明石家さんまの笑いは好きだが
大好きな笑いもあれば
それほどピンとこない笑いもある
世の中には嫌いという人もいるだろう

罰ゲームなどでリアクション芸で笑いをとる芸人もいるが
痛みを想像すると笑えないものもあるので
あまり見たくないものもある

笑いに限らず音楽・食べ物・服装・車・家屋・植物・動物など
みんな好みがある
人間生活なんて基本は好き嫌いで生きているものだ

 

『不適切にもほどがある!』(TBS系)は、制約の中での
アンチテーゼとしてのアイデアが素晴らしい

僕たち昭和に青春時代を過ごした世代には懐かしい場面ばかりだ
そういえば「チョメチョメ」ってテレビで山城新伍がよく言っていた

いっそのこと不適切な言葉は全部「チョメチョメ」と言って
視聴者に想像してもらえばいいのではないかとまで思ってしまう

となると「チョメチョメ」までもが不適切とされ
放送禁止用語になったりして、、


負の感情が連鎖するのなら笑いも愛情も連鎖するはずだ

 

幼少期に虐待を受けた経験があると自分の子供にも同じ虐待を無意識にしてしまうことは7割もあるらしい

自分が受けたゆがんだ愛情
自分が浴びせられた負の感情を
我が子にも繰り返して連鎖させてしまうのはなぜなのだろうか

親に怒られてばかりで育つと自分の子供にも怒ってばかりで接してしまうのだろうか

ということは笑いに包まれた親子関係で育ったのであれば
自分の子供との関係も笑いに包まれたものになるのだろうか

僕は子供が出来なかったので
子を持つ親の気持ちは実感できないが
同じ家庭環境に育った妹が自分の子供に接する態度を見ていると
違和感もないので、自分も同じような感じで接するのだろうなと想像することしかできない
普通に怒って普通に笑って過ごすような気がする
まあ、その普通というのが一番厄介な基準ではあるが


思い起こせば子供の頃は両親の夫婦喧嘩の声を聞くだけでも怖かった
逆に笑い合っている姿は物凄く安心した気持ちだったのは覚えている

笑顔で会話をして時には大笑いし合う光景はよいものだ
他人の家族でもそういった楽しそうな光景は見ていていいものだ
その光景にもし腹がたったり疎ましくなったり
羨ましく思うのであれば
自分がそういった安らぎに枯渇して
つい妬んでしまうからだろう
それか自分の心にすべてに余裕がない時だろうか


ということは幼少期から存分に愛情を与えられてばかりで育つと
自分の子供ができたときにも存分に愛情を注ぐようになる場合が多いということだろうか

負の連鎖があるのであれば
明るさの連鎖もあるのではないか
笑いの連鎖もあるのではないか
愛情の連鎖もあるのではないか


職場で先輩に何度も食事を奢ってもらい御馳走になっていれば
自分の後輩にも奢るようになる
先輩にしてもらった行為と好意は
下の後輩に自分が同じことをしていく
しつけや教育は伝統として育っていく

若い時に年上の知り合いにご飯をご馳走になった際に
「次は自分がご馳走します」と言ったら
「いや、私に奢るのではなくて、自分の後輩に奢ってあげな。それが順番や」と言われ
ああ、こういうふうに教えられていくのだなと勉強になった

68歳になった明石家さんまは今も松之助師匠からの教えは忘れてはいない
 先輩には敬語、ため口はするな
 芸人は給料明細を見るな
 雑談を芸に出来たら一流や

感謝の想いも謙虚な姿勢も連鎖して受け継がれていく

そして
笑いも笑顔も連鎖して受け継がれていく

自分が好きな女の子の笑顔ほど素敵なものはない
もうこの世の天使に見える

しかし別の男性に向ける素敵な笑顔を見た時には
寂しさと嫉妬が芽生えてきてしまう

笑顔も恋愛感情が関係するとやっかいなものだ


負の感情の連鎖は無くなるのが一番いいのだが
それは無理としても
負の感情の連鎖を上回る
明るさと優しさと感謝と笑いの連鎖が
繋がっていけば
きっと大丈夫だ

上手くいく

 

 

病気で弱っている人に、なんて声をかけたらええのかわからへんねん

 

「病気で弱っている人になんて声をかけたらええのかわからへんねん」


明石家さんまはよく公言しているように
病気になったこともないし
病院にほぼ行ったこともないらしい

実際は多少の風邪ぐらいはひいたことはあるだろうが
大病はないし長期にわたる治療もしていないし
常備薬も持ち歩いてはいない
もちろん入院の経験などもないし
人間ドッグの経験もない

もうすぐ69歳になるのになんという健康体
頭髪もしっかりある
さすがに白髪染めをしてるらしいが


子供の頃も風邪をひいたとしても
休みの時ばかりだったため学校は休んだことがないそうだ

もしかしたら普通の人ならしんどい症状でも
さんまなら持ち前の明るさで吹き飛ばして
辛さを実感していないのかもしれない
辛さを上回る明るさがあるからかもしれない

ショートスリーパーで朝方まで
スポーツ・映画・アニメ・ドラマを見て
さらに人から勧められた漫画も読み
服にお気に入りのワッペンをせっせと貼っている
尋常じゃないタフさなのだ

ホンマでっか!?TV』で評論家の先生が言っていたが
さんまの動きや行動は老化防止に一番適しているらしい

常に何か楽しいことを探し
家に一人でいても独り言でも声を発し
座ってテレビを見ていても
何か「あっそや!洗濯」と小刻みに立ったり座ったりよく動く
身振り手振りの動作を交えて喋ったりすることもいいらしい
運動効果がありボケ防止にもなり医学的には理にかなっているらしい
医学的にも笑うことは「ナチュラルキラー細胞(NK細胞)」が活発になり免疫力がUPして健康には良いみたいだ

そんな明石家さんま
肉体的症状の辛さを抱える人の気持ちがわからず
無神経でデリカシーがないようなイメージかもしれないが
精神的ダメージを負った人の辛さは絶対にわかっている

産みの母親の死と弟の死の心の痛みは忘れているはずがない

大切な人を失う辛さは絶対にわかっている

熱が出た
寒気がする
体がだるい
よくある肉体的な症状の辛さに対しては
どう声をかけていいのかわからないのかもしれないが
心の悲しみと痛さに対しては
よく喋るさんまは
静かな優しさと心を奮い立たせる言葉をかけているはずだ


しかしあの明るさと底抜けのタフさは
どこからくるのだろうか

生まれ持った性格もあるのだろうが
やはり常に
楽しく面白く生きようと考えて行動しているからなのだろう
その姿勢に一切ブレがない


『さんまのまんま』につんくが出演した際には
声を発することができないつんくタブレットを経由して会話していたが
普通に違和感なくつんくが声を発しているかのように
笑ってつっこんでリズム感のあるトークをしていた

余計な気遣いなどない遠慮のないいつものトーク
つんくはとてもうれしそうに見えた

もし逆の立場で明石家さんまが声を発することができなくなっても
身振り手振りとパントマイムで
笑わせてくれる

きっと

 

愛情と笑いには相続税はかからない


明石家さんま
どれだけ資産があるのか知らないが
亡くなった際には遺産は子供たちに残さないと言っている

お金が多くあることはもちろん悪いことではないし
経済的に不自由しないということはありがたいことだ
僕もたくさんお金が欲しい

僕は父親が死んだ際に会計士の人に相続税の対処を尋ねたことがある

相続税は一千万以下には発生しませんよ」と言われて
「ありゃ、そうなの?」とポカンとした

恥ずかしながら知らなかった
父親が死ぬまで考えたこともなかったからだ

実際は蓋を開けたら相続税どころか
借金が残っていただけだった

本人がこの世にもういない以上
残された親族が対処するしかない
幸いにもどうにもならないほどの額ではなかったので
母と二人で対応にあたった

でも不思議と怒りや恨みはなかった

父の仕事場を片付けている際に
机の引き出しの中から写真が一枚出てきた
僕の妹の子供の写真だ

つまり父にとっての初孫の写真だ
父は自営で下請け工場をしていて
コツコツ寡黙に仕事をするタイプだった
酒は一切飲まなかったが
ヘビースモーカーで
唯一の楽しみはパチンコだった

おそらくパチンコで出来てしまった借金だと思う

父は仕事場で一人で孫の写真を眺めていたのだろうか
それを想うと
涙が出てきた

お金に困っていても母親に言うこともできず
一人で抱えて苦しんでいたのかもしれない

それとも何とかなると開き直っていたのかもしれない

今となってはわからないが
困っていたのなら僕に相談してくれれば良かったのにとも思ったが
自分が逆の立場だったら息子に泣きを入れるなんてプライドが許さなかっただろうなと思う


僕の家庭はそんなに裕福ではなかったが
普通の暮らしはさせてもらったのではないかと思う

僕も妹も高い外食に連れて行ってもらった記憶は無いが
寿がきやのラーメンはよく連れていってもらったし
近くの喫茶店でたまにチョコレートパフェを食べさせてもらった
十分なご馳走だったし美味しかった

普通に学校に通わせてもらったし
妹は良き旦那さんに巡り合って
子供にも恵まれ
それなりに幸せに暮らしている


お金は欲しいし
たくさんあることにこしたことはない

お金があれば生活やトラブルの大体のことは解決できる
洋服・交通手段・飲食・遊び
全てにお金は必要であり
それが経済社会だ


でもお金では買えないものがある
きれいごとを言いたいわけではない

お金を払えば心から笑えることに出会えるとは限らない
心を許せる人に出会えるとは限らない
優しく温かい愛情をお金で買うことはできない

例えお金で家族を揃えることができたとしても
鬼滅の刃 那田蜘蛛山編』における
十二鬼月の累の家族のように
空虚なものになる

愛情で繋がっているはずの本当の家族でさえ
お金の問題で骨肉の争いに発展してしまうこともある

お金は生きていくうえで間違いなく必要なツールだ
愛情と笑いも生きていく上で必要だ
必要不可欠ではないのかもしれないが
愛情と笑いがあれば
心は豊かにきっとなる


明石家さんまは災害などあった際に何らかの寄附をおそらくしている
ラジオでそれらしきことを言っていた
具体的に何をしたのかは一切公言してはいない

イラク戦争時における政府の国家予算の拠出に不満を持ち
「俺はこんな戦争のために、こんなに税金を払いたない」と言ったら
税務署の担当は
「それは税務署の管轄ではないのでもっと上の政府に言ってください」と言われたという

もちろん半分はネタだとは思うが
ビートたけしと違い
政治的な事は明石家さんまはほとんど言及しない
多少話したとしても必ず笑いに変換する


人生において死ぬときには最終的にチャラになるというのが基本的な考えみたいだ

寿命も人それぞれ違う
幼く病気や事故で亡くなってしまう子
100歳ぐらいまで長寿な人生を全うする人
眠るように安らかに息を引き取る人
もがき苦しみながら息絶えてしまう人
災害で命を失う人
戦争で亡くなってしまう人
自分が死んでしまうと予期する間もなく事故で即死してしまう人

生まれ方は通常分娩か帝王切開の違いだけだが
死に方は様々だ

僕は死ぬことが怖いというより
死に伴う苦痛が怖い
眠るように朝に静かに死んでいたというのが理想だがこればっかりはどうにもならない
明日にはもしかしたら突然死しているかもしれない
友人や知り合いの中でも朝家族が起こしにいったら亡くなっていたという人が数人いる


なぜあの人達は死んでしまい
なぜ僕はまだ生きているのだろうか
何か役目があるのだろうか
生かされているのだろうか
生きたいと思っているのだろうか
生きようと思っているのだろうか


毎朝通勤の際に街の中の人を眺めるのが癖になってしまった
コンビニで毎朝買い物をする人
コンビニ店内で朝食をとる人
数少ない喫煙場所で煙草を吸う人
そして半数以上がスマホを見ている
電車内ではほとんどがスマホを見ている
みんな何をやっているのだろう
SNS・ゲーム・動画・音楽などか

隙間時間を埋めるツールは十分増えた
もちろんそんな自分もスマホを見ている

どれだけ科学が進歩しても
AIが発達しても
愛情はコーヒーメーカーのようにボタン一つで出てくるわけではない

愛情と笑いは人間であることの砦だ

誰かから愛情と笑顔をもらったのなら
誰かに愛情を注ぎたい
誰かに笑顔で接したい


愛情と笑いには
相続税はかからない

 

笑いにゴールも正解はない

 

明石家さんまは自分の笑いが一番だと思っているようにみえるかもしれないが
実は人それぞれに笑いの好みがあり
パターンの違いや笑いの違いがあるのはわかっている

自らを張り芸一派と呼び
いわゆるセンス芸と呼ばれるものと違うことはわかっている

アドリブが真骨頂なので
作り込んだ台本をそのまま演じるなんてできないし
コントで一分以上笑いのない演技を続けることにも向いていない

自分大好き人間を売りにしているが
実際は自分のことを客観視している

笑いに正解なんて無いし
完成形のゴールもないものと考えている

スポーツなら
ラソンには必ずゴールがあり
目指すタイムがある
球技ならゴールを入れなければ勝敗はつかない
格闘技ならダウンかポイントを取らなければ勝敗はつかない

では笑いに勝敗はつくのだろうか
キングオブコントやM1では審査員の点数によって勝敗がつくが
ある意味それは一つの基準に過ぎない

技術や新しい発明に相当するネタ
観客の笑いの多さ
斬新な展開
広くみんながわかりやすい笑い
喋りや演技の上手さ
間とリズムの強弱の上手さ など
様々な評価要因がある

でも見る側は技術など関係なく
面白くて大笑いできればよい
どんな手段でも客を笑わせた者が勝ちだ
そして長い年月において笑わせ続ける芸人が本当の勝者といえるかもしれない

笑いの流行もあるだろうし
同じギャクでもずっと笑いを生む芸人もいる
ワンパターンが安定した笑いを生む場合もある

結局は自分がどれだけ面白いと思っても
客のレベルが低くて自分の芸を笑ってくれないと嘆いても
笑いが起こらなければ何にもならない

ここで難しいのは自分自身が面白がらなければ
面白さなんて表現はできないが
自分が大真面目で笑うことと思っていないことが
客からは面白いと映る喋りや動作や行動があることだ

スポーツや格闘技であれば
強さには必ず理由と根拠がある
スピードだったりパワーであったり
瞬時の判断力だったりと

しかし笑いは意図しないところから発生する場合がある
だから笑いに正解はないのだ

笑って楽しければ
その場面と現象が正解だ

もちろん他人を傷つけて笑うことは違う
それは笑いの種類が違う

いや笑いではなく
誰かを下に見下げて
小さな自分を安堵させているだけだ

それは笑いとは対極の感情だ

人を嘲笑う前に
自分自身を嘲笑え

そこから初めて人を笑わすことができる

笑いにゴールはないが
スタートはある