さんまのチカラ

今までの人生で辛いことがあった時に 少しでも笑いたくて憧れて追いかけてきた

俺は幸せな人を感動させたいんやなくて、泣いてる人を笑わせて幸せにしたいんや(さんまの名言)

 

俺はなぁ、悲しいことも辛いことも
ある時「全部笑いに変えたんねん」って決めたんや

俺は幸せな人を感動させたいんやなくて
泣いてる人を笑わせて
幸せにしたいんや

これが俺の笑いの哲学や

 


地震被害に遭って苦しんでいる人たちがいる中
迂闊に安易に言えないが
これは人の死や不幸を笑うということではなくて
残って生きている人たちが笑えるようにしたいということだ

明石家さんま
この「ある時」というのはいつなのだろうか
弟の死だろうか?

さんまはこのことに関しては
多くを語らないので
推測でしかないが
大きな転機になったことには間違いないと思う



さんまに限らず
世の中の人はみんな
なにがしか身近の人の死に接している

親・兄妹・祖父母など家族の死
友人・先輩・後輩・同僚などの死
不運にも我が子を失った人もいる

突然の事故死や急な病死は
心の準備もできず
突然目の前からいなくなる

呆然とし受け入れるには時間がかかる

さんまの場合
お笑い芸人という職業に人生を賭けているからこそ
こういった発言ができるのかもしれない

普通は不幸と笑いは直結しない

最愛の人が死んで心の底から笑うことなど到底できない


日本の仏教のお通夜では
近親者がお酒を交わしながら
故人の話題を肴にして
盛り上がることを
ひとつの供養になるという風習がある

僕は喪主をした時は
準備に忙しいのもあり
笑う余裕などなかった

でもよく考えてみれば
少し遠い関係の親戚のお通夜では
関係のない話題に話が咲いたり
気軽な冗談を言い合って
笑っていた

でも小さなお子さんの葬儀では
笑い声は聞こえることもなく
笑顔はみえない
当たり前だ

年齢の順番どおりの死はまだ受け入れることができるが
子が親より先に死ぬことなど
親が受け入れることができるはずもない

 

 

哀しみの傷は決して
癒えることはないが

 

ほんのひとときだけでも
笑うことができたなら

ほんの少しだけでも
笑顔になれたなら


天から見守る
逝ってしまった人も

笑っているかもしれない